治療から逃げてた私が推しに治療する宣言するまでの話。
入院中って暇なんですよ、御見舞に来てくれる家族も彼氏も友達がいないので #泣いてない
さて、治療すると決断するまでの話。
そもそも私の持病は昨年?指定難病に登録されました。私は症状がギリギリ範囲外だったので医療費申請が通りませんでしたけど…
ちなみに原因不明、完治もしません。ただ、定期的に検査をして悪化しないように体調管理を努力する感じなんです。
定期検査に行って、今回も変わりないですね~はい次は〇日に来てくだい~お大事に~
がデフォルトでした。
それが変わってしまったのがあの11/5の入院。
急性腎不全になっちゃってたんですねーーーーーーーー(笑えない)
なんとか数値は戻したものの、いつまた体調崩して同じような状態に陥るかわからないという事と、腎臓の組織をもう1度検査してみないと血液検査だけでは不十分という事で早めに検査したいと言われました。
そこからの私は…わかりますね
ワイ「12/9には名古屋に行かないといけないんです」
医者「ライブね」
ワイ「はい( ˙-˙ )」
医者「仕方ないなぁ…」
地域医療を担っている小さな病院でしたので即ドルヲタ認知。今でも行くと言われます。
なんとか日程調整をしていただき、腎生検という腎臓の組織を針で取る検索の為に2013/11/25から1週間大きな病院に入院する事になりました。誕生日に入院しました←
2013年11月は月の半分を病院で過ごすことになります。医療費えげつなくて親にはとてつもなく申し訳ないことをしたと思って今となっては反省しか…
その時はまだ推しがリプ返しをほぼ行っていたので逐一報告をしていました。あの日心配をかけてからというもの伝えないといけないような謎の義務感がありました。ただのファンなのに。
1週間の入院中辛いこともたくさんありました。何よりも痛い。絶対安静で動けない。安静がとけても体力は落ちているし痛みが治まったわけじゃない。
でもあの日推しからリプ返しがありました。
耐えたよ私!!!!!!!!!!!!
退院してから1週間自宅安静。それがとけた金曜日の夜、私は新幹線で名古屋入り。今考えると医者もビックリな強行スケジュール。
でもこれは福岡公演からずっと待ち望んでいた公演だったから。行くしかなかった(馬鹿)
あの日の1部アンコール。
あの曲の初披露だったんです。
「たじたじ*ファンタジー~君のアイドルになりたくて~」
推しセンター曲。
強行スケジュールで来てよかった…
ここから地味に間があいて2月。むすめん。の予定がまだ詰まってなかった頃。あれよあれよと医者に流され扁桃腺摘出手術を受けました。バレンタイデーに入院したのは辛かった。これもめちゃくちゃ痛かったー。゚(゚^ω^゚)゚。
しかもちょうどこの日はむすめん。がイベント出演の日でした。私の魂は東京にいた(確信)
この言葉にこれから私は幾度も救われることになります。
《それで元気になったらほんまいいじゃないですか》
私はこの病気が中2の時に見つかってから「治らない」「治療しても意味がない」そう考えてきました。
もちろん扁桃腺摘出+ステロイドパルス療法についても調べていました。
でも良くなる確信はない。
そんな治療にお金と時間をかけて、さらに副作用まで酷いと知って、子供の私は逃げました。
それが2014年5月。
京都にきてから初めて定期検査をすっぽかしました。
医者からステロイドパルスいつするか決めてきてねと言われました。
私は決められなかったのです。
心のどこかで
〝ほっておいたらいつか良くなるんじゃないか〟
〝病気なんて悪い夢を見てるんじゃないか〟
そう思わずにはいられなかった、受容が出来ていなかったのです。
そこから更に1年以上の時を経て2015年6月。
沖縄ふぁんみ。
私は悩んでいました。
あの福岡の悪夢以来の九州。
また体調を崩すんじゃないか…迷惑を、心配をかけてしまうんじゃないか…
実際沖縄直前に風邪気味だった私はそんな恐怖に襲われました。
福岡公演後に行った病院へ予約無しに駆け込みました。
私「明日から沖縄なんです」
医者「馬鹿なの?」
私「行くしかないんです、検査して薬ください」
医者「最後に(大きい)病院行ったのは?」
私「去年の5月にすっぽかしました」
医者「仕方ないから見てあげるけど本当はそっち行かないとダメなんだからね」
優しかった。゚(゚^ω^゚)゚。
無事沖縄へ行くことができ、なんとか乗り越えたふぁんみでした。
ここで病院へ行った時にしつこく大きい病院へ行け!!と言われたもののそこから先のハードルは高かった。なにせ電車で1時間以上かかる場所。ひきこもり体質の私は自然と足が遠のいた。
さて、とてつもなく長い前置きでしたね。
私が治療を決めたのは2015/08/16
あの推しのラストMCを聞いてそれを受け入れることができたあたりでした。
「いつ辞めるか悩んでいた」
「辞められへんな~」
私は衝撃を受けました。
彼が心の支えだったから。
彼がいなくなる未来なんて考えていなかったから。
あの日私は〝裏切られた〟と思った。
しばらく引きずりました。
私があれほど頼っていた存在がいつ自分の目の前から居なくなってもおかしくなかったなんて信じたくなかった。
だから私が何度も辛いと弱音を吐いても「現場に来て」と言っていたのか。
《いつ自分が居なくなっても後悔しないように》
そう捉えてしまったのです。
それからおよそ2ヶ月悩みました。
その周辺期間に浮気しました、緑に。
過去に緑から言われて救われた一言があります。
それは8/2CCチェキ会でのこと。
「現場に来るのが辛かったら来なくてもいい、それでもまた来たくなったら待ってるから」
心が軽くなったんです。辛くても現場に行かなくてはならない、楽しまければならない。
もちろんライブ中はいつも楽しかった。でもその前後が辛かった。
ぼかした表現になりますが人間不信こじらせてました。
そんなときに緑は「あやのさんはそんな人じゃない」と認めてくれたのです。
浮気加速しちゃうよね←
そこから推しとの関係性について考えました。
推しがむすめん。を続けるという選択をしたことについて。
彼は現在唯一むすめん。で仕事を続投しています。
あの頃はまだ想像でしか無かった未来が今はあるのです。
どれだけの苦労が私の推しには積み重なっているのか。
私には理解できません。
それでもむすめん。を続けてくれた。
私の心の支えで居続けてくれた。
これがどれだけ有難いことか、と気付かされたのです。
私もむすめん。をいつまでも元気で応援し続けたいな~
寛解の可能性がわずかでもあるなら治療してみよっかなぁ~
現場を少しお休みすることになっても今なら大丈夫かな~
そんな感情が芽生えました。
病気受容が完璧に出来たわけではないけれど
推しが頑張るのなら私も頑張るしかないよね!←
勇気を出して約2年ぶりに大きな病院に行ったら前の担当医はいなくなってた。
だよね、でもむすめん。ちゃんはまだ居るんだよね。ありがとう。
そこからすぐに決まった入院日程。
2016年1月からステロイド治療を始めることにしました。
その決意表明をした2015/11/21
中野公演のDVDリリイベサイン会でのこと。
私は入院書類一式持って推しのブースに行きました。
私「治療しようと思って」
推し「待っていますぐ書くから待って」
この時ほど推しの手の遅さにイライラしたことは無いでしょう。
私「のっくんがむすめん。続けてくれるから、ちょっと元気にむすめん。追いかけ続けたいな~って。長生きしようかな~って」
推し「それは生きなあかんで」
サラッと私は決意表明したのに流されました。
でも生きなあかんでと言われたので許すことにしました。
でもやっぱり推しのこういうところは嫌いです。←
だから緑に浮気するんだぞ!←
年末にあった大阪チェキ会。
私は緑に会うためだけに行きました。
私「年始から入院して~退院したつぎの日に名古屋チェキ会行きますね~」
緑「そんな上手い話あると思ってんの?舐めてんの????」
怒られました。
やっぱりいつも私が無茶しても甘やかしてくれるパパがスキーーーーーーーーーーーー。゚(゚^ω^゚)゚。
そんなオチ。
駄文長文お粗末さまでした…